現在の東京外国語大学旧西ヶ原キャンパス跡地は公園、老人ホーム、武蔵野高校の校庭の一部、保育園、マンションとして利用されています。
公園は、一号館、二号館、三号館、図書館、部室、グラウンド、テニスコートのあったあたりで、災害時の避難所となっています。
老人ホームは、体育館と教授棟のあたり。
武蔵野高校の校庭は、教務課のあったあたり。
保育園は、講堂のあたり。
マンションは、講堂から生協、一号館の一部にかけてです。
2013年3月
旧正門付近から中へ 記念碑が建っています。
東京外語会が大学に寄付した百周年記念教育研究振興基金の一部を使用して建立しました。
東京外国語大学西ヶ原キャンパス跡地
東京外国語大学の起源は、安政4(1857)年1月に開校した蕃書調所まで遡る。明治6(1873)年11月に直接の前身である東京外国語学校が東京府神田区一ツ橋通町に建学され、神田区錦町、麹町区元衛町・竹平町を経て、昭和19(1944)年5月に東京外事専門学校が当地に移転した。その後、昭和24(1949)年に東京外国語大学が新制大学として発足し、平成12(2000)年に府中市に移転するまで、多くの学生がこのキャンパスに学び、巣立って行った。東京外国語大学がこの地にあったことを記念して、 ここに碑を建立する。
平成25年2月 東京外国語大学
「跡地の変遷を記したパネルが公園内にあります」
まちのうつりかわり
この場所には、海軍技師の下瀬雅允が開発した下瀬火薬を製造するため、明治32年(1899年)に、海軍下瀬火薬製造所が建設されました。
下瀬火薬は、日露戦争で使用され、世界的に注目を集めました。大正時代、下瀬火薬製造所は、海軍火薬廠製造部第五工場、さらに海軍火薬廠爆薬部へ名を変えていきました。一般には、海軍火薬製造所などと呼ばれていましたが、昭和4年(1929年)頃、移転していきました。
その後、周辺の宅地化が進むなか、昭和19年(1944年)に東京外国語大学(当時は東京外事専門学校)が一ツ橋から当地に移転してきましたが、第二次世界大戦の戦災により、校舎は全焼してしまいました。
昭和24年(1949年)に東京外国語大学が新制大学として発足し、平成12年(2000年)に府中市に移転するまで、東京外国語大学西ヶ原キャンパスとして多くの学生が学び、巣立って行きました。
…(続く)
中を覗くと見通しは利いていて、西ヶ原小学校がよく見えます。東京スカイツリーも見えます。
公園。旧1-3号館、図書館、部室、グラウンド、テニスコート
武蔵野高校校庭と老人ホーム。旧教務課、体育館、教授棟
都電側 保育園とマンション。旧講堂、生協、1号館の一部
都電 西ヶ原4丁目駅。ここは変わっていません。
染井霊園。ここも変わっていません。
東京外国語大学に関する記念碑を他に二つ紹介します。 一つは、千代田区地下鉄神保町駅のすぐそば如水会館のすぐ近くに東京外国語学校発祥の地の碑が建っています。
下の写真の記念碑後方にある左のビルが如水会館です。
東京外国語学校発祥の地
東京外国語大学の起源は安政4(1857)年に創設された蕃書調所まで遡るが、直接の前身である東京外国語学校が開設されたのは、明治6(1873)年11月4日、この地(東京府神田区一ツ橋通町一番地)においてであった。東京外国語大学はこの日を建学記念日としてここに碑を建立する。
平成14(2002)年3月27日 東京外国語大学
二つ目です。東京外国語学校の跡地からほんの数百メートル離れたところに、蕃書調所跡があります。
蕃書調所跡は東京都によって旧跡に指定されており、千代田区教育委員会による記念碑が地下鉄九段下駅を出てすぐのところに建てられています。すぐ隣に昭和館があり、また近くには九段会館、日本武道館もあります。
東京都指定旧跡 蕃書調所(ばんしょしらべしょ)跡
所在地 千代田区九段南一丁目六
旧跡指定 昭和三十年三月
安政三年(1856)に、江戸幕府は竹本図書頭拝領屋敷上地である当地に、蕃書調所を設けました。
蕃書調所は、最初「蕃書和解御用」として西洋の書籍を解読して海外事情を調査するために設置されました。その後、幕臣・諸藩の家臣らに対して西洋の文物を教育する機能も加わります。また、画学局も置かれ、明治期に活躍した西洋画家たちも多数学んでいます。
のち神田一ツ橋通りに移転して、洋書調所、さらに開成所と改称しています。明治二年(1969)に、大学南校となり、開成学校と改称しました。現在の東京大学法学部・文学部・理学部の前身です。(*注)
昭和三十一年三月設置 千代田区教育委員会
●東京外国語大学HP 歴史・沿革
●東京外国語大学文書館HP 東京外国語大学の歩み
●東京外国語大学沿革略図 (東京外国語大学HPより)